@mhj333
人間の普遍的な心理

おきて無崎 世界すくうよ

なんでさ。世界は私のことなんか救ってくれんで。

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「やば」

 隣でごろついていた白南風は気づいていた。が、その頃にはもうそいつはそこにいなかった。


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 走っていた。
 喉の奥が引き裂かれそうなぐらい痛い。身体はどんどん軽くなっていく。障子紙を突き破るぐらいかんたんに駆けていく。
 ろうそくの火は燃え尽きる瞬間がいちばん明るいって言ってるやつ自分でろうそくつけたことあるんか? わかったようなこと言いやがって。人間が燃え尽きる、その直前には、みんな壁を這いずりまわっているだけだ。そしてスイッチを見つける。スイッチ自体は最初からそこにあるのだが、明るい場所にいて、まっすぐに二足歩行できる人間はそんなものは必要としていないので知らない。斜陽に暮れていき、徐々に動かなくなっていく人間だけが、壁を頼りに歩き始める。そしてスイッチを押す。すると急に、切り替わって、すっと立ち上がれるようになるのだ。
 40時間以上折ったままだった膝もかんたんに持ち上がった。右耳には声がした。それは彼女以外の誰にも聞こえないので、この先に何かがあったとしても、それはまったき偶然だったが、彼女はどちらかといえば追いかけていたのではなく、逃げていた。あきらめること、逃げること、走ること。短い一生が弥音に教えてくれたすべて。
 呼吸が痛む。苦痛は輪郭から骨までとどろいている。懐かしいぐらいだった。普段、究極的に鈍麻している命というものが発熱していた。激しく発熱していたのだった。無人島になにかひとつだけ持っていくならなに? なーにも。別にもう。意味がない。千重波の家がない世界で生き残るのは無理。普通に死ぬ。
 だからこれは普通のことだ。ただ怖くなって逃げだした。自分が死んだあとのことを想像した。誰かがそれを見つける。教室で急に誰かが脱糞したみたいな顔をみんながする。今は哀悼やなんやかやよりもずっと早く、張り詰めた苦痛の引き金になるだろう。なんとなくわかるのだ。人の判別はつかないけど顔色をうかがうのは得意だった。おのおの、無崎の遺体のまわりにばらばらになって転がっている「クラスメイト」「死」「すぐ近く」「遺体」「孤立無援」などの様々な要素を拾い集め、好き勝手に解釈して、苦しんだり、怒ったり、悲しんだり、狂ったり、そういうことに都合よく消費されていくだろう。レイプされたほうがまだマシだ。

 走り続けた先は明るかった。青い光。鬼火のように見えたが蛍光灯だった。立ち止まると自分の心臓音の向こうからかすかにジーッ……と電燈の音がする。その壁際に誰かが立っている。壁のほうを見ている。山高帽にストール、唐茶色の着流しの男。足元は草履で、古惚けたトランクが置いてあった。
 思わず立ち止まった。まるで誰かを待っていたかのように見えたからだった。朦朧としていたからそう思っただけかもしれないが、結果的に男は振り向いた。

「バァ」
 彼には顔がなかった。まっさら。

 はあ?
 ふざけてんのか、と無崎は思った。共感性が暴走していて、目に入るものすべてが自分に語り掛けているかのようで、男の顔は自分を馬鹿にしているようにしか見えなかった。かっと頭に血が上って何も考えられなくなり、走っていたことはすべて忘れた。

「なんだい、死にに来たんなら曲がる角を間違えたぜ。さっきのところを逆にいけば奈落があって、この世のなんにも気が付かれないまままっすぐ地獄へ行けたのに」
「うっさいな」
 そもそも死にたいだなんて思ってない。ただ死んでしまうだけだ。こんなに大勢の人たちに一生懸命生かしてもらってるのに。

「そんなことはないさ、結局君たちってやつはね、望んだばかりのことにしか気が付かないのさ。松明で照らしたほうにあるものしか見えないんだよ。奈落を照らせば闇ばかりがあるし、壁を照らせば壁ばかりがあるし、上を見れば天井があるしね。だから君だってこの冥々裏の通りに来たからには、僕ァもちろん声をかける理由があるってわけさ」
 まどろっこしい喋り方の顔無し男は、帽子を脱いで床に置いた。そのまましゃがみこみ、トランクを開く。
「ほうら、見てごらん」
 無崎は反応しなかった。頭に血が上っていた。感情はいつも彼女の身体に収まりきらないほど大きかった。だからひとつのそれに気を取られているうちに、周囲では彼女の思う以上に物事が進んでいて、思ったリズムで対話は進まなかった。指がかかりそうでかからない感じ。そもそも意図して人の話を無視できるほど器用ではなかった。人にとってはドーナツの穴に指を通すようなことが、彼女にとっては縫い針に糸を通すような面倒ごとであるというのはよくあることだった。
 しかし顔無しは彼女の浸っている時間を一緒に流れていった。深い深い憤りがゆっくりと、彼女の充血した目を左側から右側へと流れていって、激昂が喉を降りて胃の腑に落ち着いたころ、男はもう一回「見てごらん」と言った。
 なにを偉そうに。
 彼女はずんずんと歩いていった。そしてトランクの中をのぞき込んだ。
 何もない。
「違う。ここには、なにもかもがある。ものを見るというのはほんとうはそういうことなんだ」
 そして顔無しは彼女を捕まえて言った。
「経済というやつをしようじゃないか、ねえ君。ここにはなにもかもがある。君の望むものがなんでも。今まさに求めて走ってきたものをなんでも。だからその中からひとつをなんでもあげよう。でもロハではないんだぜ、ねえ君、このトランクが何に見える? 君、人間というやつはみんなね、このトランクと一緒なんだ。からっぽの箱だが、その実、中身にはなにもかもがすでに備わっているのさ。だからなんだって取り出せるんだ。君もなにかを差し出してくれなきゃならない。欲しいものがあるならば、其れ相応の支払いをしなければね。それが経済というものなんだから。わかったかい、君はそれでもね、何事もなかったかのようにここを引き返していってもいいんだ。そして奈落のほうへ向かってもう一度走っていったッて構わないんだぜ。迷っているんなら硬貨を弾いて決めたッていいんだ。君は自由なんだ。然し、若しも心を決めているンなら、」
 細白い、稚魚のように透き通った顔無しの指が、無崎の内側から血を流している喉をざらっと撫でた。
「こんなに綺麗ぢゃアないか。どうか譲ってはくれないか」
 虚空。
 なにもない空間が着流しを羽織って立っている。トランクの中身はからっぽだ。
 共感性の感応はとどまるところを知らず、彼女はそれが自分と同じだと思った。自分だけではない、誰しもがそうだ。ある意味世界そのものだってそうだろう。あると思われたものばかりがあり、ないものは意識の泡にすらならずに存在することは決してない。だとするならば、自分は何から逃げるために走ってきて、何を売るためにここに到ったのか。
 それをハッキリと思い描いた途端、男の指は彼女の喉ぶえに食い込んだ。粘土を潰すみたいにめり込み、ずぶずぶと深く沈み込んでいく。
「良かろうよ。そんなもので良いのなら勿論。なんならお釣りを返さにゃいけないだろう。こんなにいい返事が返ってくることなんてないンだぜ、本当サ。質屋だって遠慮して帽子を脱ぐだろうよ」
 無崎は、虚無に生えた指の関節が、血を流しているところまで沈んできたのをただ感覚した。それは何かを掴もうとしていた。彼女が喉を鳴らすと、少し動いた当該の部位を指がつかんだ。金縛りに遭ったときのような痺れと耳鳴りが覆いかぶさった。そして男がそれを引きずり出すにつれ、麻痺、耳鳴り、震え、心筋痛、関節痛、腫れ、あまねく苦痛的感覚が彼の指先に引っかかって身体から抜き取られていった。
 そうして、もうそこには何もなかった。
 顔のない男はもうおらず、弥音は雑音と暗黒ばかりが垂れる廃道に立ち尽くしていた。
 苦痛と共に、一度も言葉にしたことのないあらゆるものが身体から抜けていった。
 足元には紐が落ちている。

 深呼吸する。酸素は有毒なのだ。無崎はそれを忘れたことがない。どんな記憶も忘れさせてはくれない。
 だけれど、その時吸った空気はただ、喉を通り抜け、肺を膨らませ、遠慮がちに鼻を抜けていっただけだった。
 軋む音のひとつもなかった。

 彼女はしばらくそこに立って、黙っていたが、やがて踵を返し、ふらふらと幽霊のように歩いて、元いた場所へ迷わず帰っていった。



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「……どこ居たの?」

 白南風は訝しんだ。ヌッと姿を現し、何事もなかったように寝つこうとする無崎に声をかけた。
 彼女は何も答えなかった。いつもと同じ。何も変わらない。
 それから彼女は何も話さなかったが、ふと思い至ったようにブレザーのポケットから、細い編み紐みたいなものを取り出して、足首に結い出した。

「なんそれ」

 無崎はだまって首を振った。
 それは釣り銭替わりに、風変りな商人が置いていったものだった。生者には無用の長物だったが、見ようによってはそれは、臍の緒のようにも見えた。
 弥音は変なミサンガだなと思った。



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「なあンだ、どっちも綺麗ぢゃないか。そう思わないか?」
「寝ろ」

 黴の生えた布団に話しかけながら、椒魚の男はがらす瓶を振った。
 そこには不透明な琥珀色と、内側から輝くような瑠璃色、2つのがらす玉がからから転がっているばかりである。


 


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