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のざりん(社民主義で緑の党支持)
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J.デリダの「生命倫理」序説――P.シンガーの動物解放論を批判する・2

2 デリダの「生命倫理」

 2−1 「正しく食べる」ということ

 このようにシンガーは、動物には感覚があるがゆえに、それを殺して食べたり利用したりすることは不正であると論じる。有感であればそれを殺すことは不当であり、そうでなければ正当化されてよい。つまり、殺すことに関する倫理的行為の判断基準とは、感覚の有無によって決定することであるとシンガーは述べているのである。

 けれども、そのような判断基準の根拠は、やはり恣意的であると言わざるを得ないのではなかろうか。井上が言うように、感覚による線引きが第一義的には価値とは結びつかないゆえ正当化されるならば、生物種による線引きも第一義的には価値とは結びつかず、正当化されてしまう。生物種による線引きが政治的に価値と結びついてしまうなら、同様に感覚による線引きも政治的に価値と結びつく。また、そのような判断基準に従うだけのことが倫理であるとするなら、私たちが行為を選択し決断するという、私たちの主体性や責任の問題は不問にされてしまう。

 デリダは、肉食か菜食か、ではなく、「食らう」という行為じたいに含まれる供犠の構造そのものを問題にする。すなわち、食らうという「主体性そのものの支配的図式」(デリダ [1989=1996:176])を問題にするのである。

 デリダは、「人は生物一般に対する責任=応答可能性を持っているだろうか?」という問いに対し、「西洋の形而上学あるいは宗教の、規範化された、あるいは覇権的な言説の全体において、この問いは、答えがかならず「否」になるような形に設定され提起されてきた」と言う(同:172)。そして、次のように述べる。

 「このことを確認したからといって、菜食主義やエコロジー主義、あるいは動物愛護協
 会の応援をしようというのではない――そうしようとすることもできようし、そうする
 ことでわれわれは、論題の中心に到達することにもなるだろうが。この必然性に従いつ
 つぼくがとくに明らかにしたいのは、ここで参照している諸言説の供犠的構造なのだ。
 「供犠的構造」という言い方が、もっとも正しい表現かどうかは分からないが。いずれ
 にせよ問題は、これらの諸言説――それはまた諸「文化」でもあるのだが――の構造自
 体のうちに、非−犯罪的な殺害用に、空欄にされている場所を認めることだ。死体の嚥
 下、体内化ないし取り入れも含めて」(同:173)

 続いてデリダは、こうした死体の範囲の問題に触れる。

 「この死体が「動物」である場合、行動は現実的だ。しかしまた、それは象徴的でもあ
 る(中略)。死体が「人間」である場合、行動は象徴的だ。しかし、この場合、「象徴
 的なもの」の範囲を限定することは非常に困難であり、実際のところ、不可能だ。だか
 らこそこの作業は法外に大きく、本質的に〈尺度を外れて〉おり、ここでそれに対して
 責任を取るべきもの、あるいはその(誰の? 何の?)前で=に対して応答しなければ
 ならないものが、ある種の非規範性〔=無規律性〕ないし怪物性を示すのだ」(同:173)

 このようにデリダは、「供犠的構造」と呼ぶもののうち、人間を犠牲にすることと、動物を犠牲にすることとの間の差異を認めるのは困難であると述べる。「主体は、ただ単に、自然の主人にして能動的な所有者たらんとするのではない。われわれの諸文化では、主体は供犠を受け入れ、肉を食べる」(同:176)。つまり、人間を犠牲にすることも動物を犠牲にすることも「主体性そのものの支配的図式」(同:176)としては同じであるというのである。さらに、デリダは次のように迫る。

 「さて今、生物と非生物の間の境界も、「人間」と「動物」の間のそれと同様、少なく
 とも対立的境界としてはきわめて怪しいものになり、「食べ=話し=内化する」(象徴
 的ないし現実的)経験において、倫理的な境界はもはや(人間を、汝の隣人を)「殺す
 なかれ」と「生物一般を死なせてはならない」の間に厳格に走っているのではなく、他
 者の概念〔=懐胎〕=自己固有化=同化の、いくつもの、無限に異なった様態の間に走
 っているのだとすれば、その場合には、あらゆる道徳の「善」に関する問いは、自己を
 他者に、また他者を自己に関係づける最良の仕方、もっとも尊敬に満ちた、もっとも感
 謝にあふれた、そしてまた、もっとも多く贈与する仕方を規定することに帰着するだろ
 う」(同:176)

 私たちは、他者の供犠なしには自己の個体保存が不可能である。だから、何を食らおうとも、私たちは生きているかぎりは供犠的構造の中から抜け出ることはできない。そのことを踏まえるなら、倫理というものが問うべきは、どんな他者を供犠のうちにさらすのか、という線引きの問題ではない、そうデリダは言う。「問題はもはや、他者を「食べる」のが、またどんな他者を「食べる」のが、「よい」〔=美味しい〕かどうか、あるいは「正しい」かどうかではない。いずれにせよわれわれは他者を食べるのだし、他者によって食べられるがままになるのだから」(同:177)。デリダは、道徳的な問いを、シンガーが考えるような線引きの問題としては考えないのである。「道徳的な問いは、食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれであってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない」(同:177)。

 では、デリダにとって「正しく食べなければならない」とはどういうことか。それは「単に〈私〉にとって栄養豊かであってはならない」(同:177)ということである。「正しく食べる」とは、他者とともに美味しく食物を味わうこと、そしてそれを学ぶことなのである。「けっして自分だけで食べないこと、これが「正しく食べなくてはならない」の規則だ。それは無限の歓待の掟だ」(同:177-178)。

 「他者に対する尊敬の崇高な洗練は、また「正しく食べること」あるいは「善を食べる
 こと」のある仕方でもある。〈善〉も食べられる。〈善〉を食べなくてはならない。こ
 こまで来ると、「誰が」とは誰のことか、まして「供犠」とはどういう意味か分からな
 い。「供犠」というこの言葉を規定するための指標を一つだけ取り上げよう。致死の必
 要、欲望、許可、正当化、すなわち殺害の否認としての致死だ。この否認は言う、動物
 を死に至らしめることは殺害ではない、と。ぼくはこの「否認」を、主体としての「誰
 が」の、暴力的な制定に結びつけるだろう」(同:178)

 線引きの問題点は、ここにあるのだ。すなわち、線引きによって他者と認定されれば、供犠つまり殺害の対象となる。だから、他者と認めたくない者にするためには、殺害を殺害ではないと言いくるめればよいのである、殺害ではなく致死であると。しかし、他者とは認めたり認めなかったりするようなものではない。認めようが認めまいが否応なく私の前に現れる何者かである。他者が否応なく私に倫理と直面させるようなものなら、線引きの問題が倫理や道徳の問題ではないことは明らかである、そのようにデリダは考えている。

 2−2 「現実」の位置と「決定」

 このように、デリダの思考を経由した「生命倫理」、とりわけ肉食と菜食に関する「食らう」ことをめぐる倫理問題は、線引きの問題には還元されない。「食らう」ことそのもののなかにある、他者を供犠のうちに召すことそれじたいが真の倫理問題なのであった。

 これに対しては、反論もあるだろう。当のデリダ自身が、「食らう」ことなしに生きていくことなどできないことを認めている。だとすれば、やはり感覚の有無によって線を引き、有感生物を食らうことに歯止めをかけることを正当化しなければ、現状では多数を占めるであろう肉食は減らない、そのような考えが出てきてもおかしくはない。

 デリダはもちろん、そのような現状でよいとは考えていないし、また、そのような現状を仕方のないものだとも捉えていない。むしろ、デリダはこのような「食らう」ことの倫理をめぐる、一見その決定が線引き問題に還元されがちな問いに関して、別様な角度から迫っているのである。

 「現実」をまわしていくには、私たちは否応なく何らかの決定、決断をしなければならない。何を食らうのかについて、普遍的な指令に基づく決定は、「決定可能なものの決定」であって、そのような決定は倫理的な決定ではないとデリダは考える。「プラトン主義的決定とは、決定不可能なものを外部に(外部として)排除し、そのようにして生じた内部/外部、自己/他者、現前/不在、パロール/エクリチュールといった分割を、階層秩序的二項対立として、ロゴスの法として固定化しようとするものであった。脱構築は、そこで外部として排除されたものが内部の内部に――「亡霊的」に――回帰するのを示し、ロゴスの法のなかに決定不可能性を再導入することによって、決定不可能なものの経験のなかで別の決定がなされることを要求する」(高橋 [2003:245])。すなわち、食らうことに関する人間主義的な法による決定は、動物の供犠を致死として正当化し、菜食主義的な法による決定は、植物の供犠を致死として正当化してしまう。責任ある決定とは、「現実」の経験をその都度、特異な他者性として経験すること、法の決定の無効さを思い知ること、そうした経験を通じてなされるものとしてしかあり得ないのである(同:245)。

 また、デリダのいう「決定」とは、主体としての自己には不可能である。「自己を決定の起源と考えることは、自己の宣言が他者の呼びかけへの応答であること(中略)の否認であり、決定不可能なものの経験の拒絶なのである」(同:247)。

 「責任というものは、そのなかに、ある本質的な〈尺度を外れたもの〉を携えているの
 だから。それは根拠律にも、なんらかの計量可能性にも合致しない。やや乱暴な言い方
 をすれば、主体はまた計算可能性の原理でもある」(デリダ [1989=1996:166])

 責任ある決定とは、特異な他者との一対一の関係に開かれた、その都度行われる決定でしかあり得ない。事前に根拠づけられた、つまりは主体によって計算可能な決定とは、真の決定であるとは言えないのである。「ぼくは、〈計算不可能なもの〉、あるいは〈決定不可能なもの〉の試練を横断しないような責任や倫理=政治的決定などというものはないと考えている。さもなければ、計算、プログラム、因果関係、せいぜいが「仮言的命法」しかなくなってしまうだろう」(同:166)。人間と動物、あるいは有感生物と無感生物との間に境界線を引き、どちらなら犠牲は許される、仕方のないことだという規則に従うことが、デリダに即せば責任ある決定だとは言えないのである。「有限の、ほどほどの=計量された、計算可能な責任、合理的に分配可能な責任とは、すでに、道徳の法律化だ」(同:182)。

 2−3 デリダの思想から見えてくるシンガーの動物解放論の問題点

 これまでの議論から明らかなように、シンガーの動物解放論をデリダに即して読んだとき、大きな問題点が二つあることがわかる。まず一つ目は、線引きの問題に関わる。すなわち、感覚の有無を倫理的配慮の境界にしようとすることが誤りだということである。倫理的に問われるべき問題は、境界をどこに引くかという問題ではなく、そもそも「他者を食らう」ことに関する供犠の問題である。次に二つ目は、「決定」における主体性と責任の問題である。すなわち、責任ある「決定」とは、計算可能な主体が何か規律に従って判断を下すという類のものではない、ということである。一回ごとの決定が、他者と向き合いながら、自己の主体性を崩壊するようなものでなければ、真の決定であるとは言えないのである。

 次章では、これまでの議論をデリダによるシンガー批判と捉え、さらに考察を進めたい。


ジャック・デリダ 1989 (=1996 鵜飼 哲 訳 「「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」(Nancy, Jean=Luc ed. 1989 Cahires Confrontation 20: Apres Le Sujet Qui Vient, Aubier(=1996 港道 隆 他 訳 『主体の後に誰が来るのか?』,現代企画室)),146-184)
高橋 哲哉 2003 『デリダ――脱構築』,講談社


08:19 AM - 28 Sep 12 via Twishort web app

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