@mhj333
人間の普遍的な心理

解きつ離れて人ごとく

 

 衝撃。
 たやすく浮いた。抉られた意識のほうが身体より先にコンクリートの地面に叩きつけられる。
 意識が落ちた。


 というのは嘘だ。
 弥音はぼんやりした熱の中を漂っていた。
 意識の半歩先に頬骨、後頭部、右肩、背骨の突き出た部分、右股関節、左足首が赤っぽく明滅する自分の身体を感じる。それは痛かった。
 外側の声が聞こえない。耳鳴りが壁のように背景を塗り潰している。完璧に封じ込めている。
 閉じていた。

 痛みはものすごく長い列車両のようなもので、一過性だ。
 あの時永遠だった微熱と関節の焼け、内臓が対流しているような終わらない無重力の吐き気、存在しないオーブントースターで炙られる皮膚、それらでさえもやがて去った。
 気は長くなった。重たい鈍痛を積載した貨物車が線路を踏みしだいて去っていくまで、何か月だって待っていられる。
 閉じているあいだ、やることがなくて耳鳴りに手を伸ばした。航空機が飛び立つときのような、激しい風の雑音とかん高いエンジン音が見える。飛行場。雑草で罅割れたコンクリート。青い空。霞んだ雲。大きな緑色のフェンスに手をかける。数百メートル先で一台の飛行機がずっと飛び立ち続けている。強い風が吹いている。かばうつもりで袖で口もとを覆ったまま、長い間それを見ていた。数日が過ぎるうちにも空は青いままで、飛行機は飛び去っていってしまうことはなく、ずっと離陸し続けていた。
 突然、管制塔から場内にアナウンスが響いた。間延びして意味合いの崩れた音は割れていて頭痛がする。触るな。声デカいんだよ。
 マイクが繋がった瞬間、印象で罅の割れた空が砂のように融け、あたりは夜になった。星も月もないので暗闇だ。指をかけていたはずの目の前のフェンスすらも見えない。そのうちに、飛行機はいつの間にかいなくなっていた。

 扉は開けておくほうが簡単だ。閉じておくのは難しい。
 高性能で頑丈な防火シャッターみたいに勝手に閉じてくれるならまだいいほうで、かんぬきのばかになった扉に錠をかうために地団駄を踏むほど手間がかかることもある。
 それでも一度閉じてしまえば、いつも鍵を確かめておかずにはいられない。

 夜の暗闇が瞼の裏側の闇と一致した瞬間、途方もなく長かった数時間から目覚めた。
 身体は血を巡らせるのをやめたみたいに強張っていて動かなかった。生ぬるい顔を拭うために意識の先でひっかけるようにして左手を持ち上げる。右半身にぼんやりした痛みの残滓があったが滲んでいて具体的にどこが痛いのかよくわからない。こもったように熱いのに寒くて震えが止まらない。
 起こってしまったことだ。
 思わず持ち上げた手で右耳を塞いだ。何が起こったのかは思い出せなかった。

 身体を起こすと上から下へ、血管を血の流れる音がした。
 解凍されていく感覚が表面から溢れ出し、考えようとすることすべてを押し流していく。
 裸電球がぽつんと照らすだけの路地に座り込んで外を見ている。
 外側を見つめている。

 溢れ出したものが流れていき、排水溝に掃けていくのを静かに待っている。
 かんたんに溢れてしまう。溢れている間は急流すぎて何も考えられない。音も光も外側にはあるけどここにはない。ここまで届かない。だからこうして座り込んでいる場所はいつも暗闇だった。あるものですら存在できないほんもののなにもない場所に取り残される。自分から探し当てて潜り込むことさえある。何か考えなければならない気がしてもそこには何も存在できない。だからただ呼吸しているしかない。呼吸している。胴の内側が震えている。束ねていた部品を失って不安定になったみたいにぐらついている。曖昧な感覚の中で痛みを一つだけ探り当てて、頬骨に手を当てる。熱を持っていた。でも冷え切っていて寒い。頭の中に切り傷があって沁みている。じわじわと血のにじむ音がする……

 ばらばらになりかけていた背中を、急に誰かが抱きしめた。
 重たい。曖昧だが確かな誰かが砕けそうな背を束ねて支えている。溢れかえって浮かび上がっていきそうな身体を柔らかいものが巻き付いて押さえている。
 急に感覚した。アイスのことを思い出した。非現実的なぐらい血まみれだった女の子が手渡してきた棒つきのアイスキャンディーだった。きんと頭が鳴るぐらい冷たかった。しかし寒くはなかった。彼女はちょっとした血だまり(と、ついでに本人)を洗い流したあと、賃金めかして封筒を握らせ、拠点まで無崎を導いてくれた。クラスメイトは誰ひとりとして無崎が札書き以外で収入を得ることを想像していなかったので、誰に渡されることもなくそれは内ポケットに入れたままだった。
 あの時誰かが手を引いていた。誰かが……

 ああ、そういえば、あの時ほんとうに吐き気がして食欲がなくて、朝飯を譲った人のことを思い出したのは手を握ったときだった。後ろ側から前に回された両手の片方に、打ち付けて内出血した右手が触れた。ひんやりした手がその痣をそっと包み込んだ。そして思い出した。誰かに手を引かれていたこと。
 彼女は無崎を抱きしめたまま、暗渠の内側に一緒に座っていた。
 剥離していた身体が確からしくなっていく。彼女の腕を通じて。触れ合った背中が暖かい。寒くて仕方がなかった身体をうずめる。
 その間、誰でもない独りと誰かは独りで二人きり。


 温もりを覚えている。だから寒さがわかる。


 溢れかえったなにもかもが掃き出され、立ち上がって棲家に帰ることを思い出すまで、
 弥音はぼんやりと傷ついた頭の中で、その温度が何だったのかを確かめようとしていたが、結局なにも思い出せなかった。

 


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