@sakuraiminato
櫻井水都@備前サーバ

『月明かりは鈴の音のごとく』

櫻井水都


「月が綺麗よ」
 格子窓をおもむろに開けて、少女は言った。窓枠が四角く切り抜いた夜空は、名月を描いた一幅の絵だとしても、少々現実味に欠けるほどである。
 振り返れば、先程までの行為を証明するごとく、陰影鮮やかに波打つ褥《しとね》。その上に半身を起こして横たわる、自分の父親ほどの男を、彼女は知らない。顔も、声も、名前も、しょせんは仮初めのものだ。確かなのは、あの腕《かいな》がつい今しがたまで少女の華奢な体躯を抱いていたことのみ、そしてそれさえも、明日になれば朝露のように消えてしまうのだろう。むしろ今宵の一切は、男がそれだけの存在であることを追認する手続きにすぎなかった。
 ──ああ、また、違う。

 月の綺麗な晩に、あんたは生まれたのよ、と少女の母は折りにつけ語りかけた。
 その日もちょうどこんな、冷たい、けれどわずかに春への足取りを思わせる風が吹いていたのだという。雲ひとつない夜空に、月明かりがまるで鈴の音のようだったのよ。
 おかあちゃん、月は音なんてしないんだよ、と言ったことがある。母は小さく笑って、何も答えなかった。自分は何も間違ったことを言っていないはずなのに、とても高いところにある菓子に手が届かない時のように、妙に悔しかったのを覚えている。
 父の肩に乗って祭りをねり歩いた晩、あれも満月だった。ほうら、見てみろ、綺麗だぞ。指差す先には、鏡のような月が浮かんでいた。少女にとって、月は、鈴よりもむしろ太鼓や笛の音を連れてくる。あるいは赤い月だったかもしれない。りんご飴のようだ、と思い、父にねだったものだった。そして翌日、少し欠けた月を指して、「あのあたりが、昨日お前が食べたとこだな」と笑った…

 少女はかぶりを振る。甘い感傷だ、まるでりんご飴のような。
 母の言う、鈴の音のような月明かりの晩から、十ばかり暦がめぐった頃、父は姿を消した。母の目に涙はなく、あたかも最初からこの家には男などいなかったかのように振舞った。しかし娘のほうは、そうはいかなかった。問い詰める娘に母は、都のほうに大きな仕事ができたんだよ、と言った。その言葉を疑う程度には、少女は既に幼くなかった。
 幾日かが過ぎ、あの祭の晩のような赤い月をぼんやり眺めながら、彼女は鮮明に、男は決して帰ってこないのだと悟った。そう、なぜならば、あたしたちが、あいつを、捨て、たの、だから!
 月はいつしか天頂近くまで昇りつめ、赤い紗を脱ぎ去っていた。明け透けな月明かりが胸の奥に沁みわたり、りんりんと音を立てた。太鼓の音でも笛の音でもなかった。がらんどうの胸の中に反響するそれは、紛れもなく鈴の音だった。


 そして、少女はまた、一夜の逢瀬を交わす。
 自分の父親ほどの歳の男と夜毎契って、何を期待しているというのか。否、期待などではない。断じて。顔も、声も、名前も、しょせんは無意味だ。衣を脱げば皆同じなのだ。朝になればすべては露と消え、この手には男の欲望とひきかえの小銭だけが残る。これは、己の生き様すべてをかけた報復なのだ。
 ねえ? どうせ、みいんな、こういうのが好きなんでしょ?

 けれど、もし。もしもいつか、あの男が目の前に現れたら?
 少女は真円の月を見上げ、うっそりと目を閉じる。客という名の獣は、いざ抱かんとしているのが己の娘であると気づくだろうか。どちらでも良いのだ。気づいたならば、その瞬間に耐え難い羞恥に襲われるだろう。気づかなかったならば、男ののぼせ返った面をひそかに嘲ってやろう。欲望にかられて置き去りにした娘の上で、まったく同じように欲望を剥き出しにする、その愚かさを。

 ──月明かりがまるで鈴の音のようでね、それがあんまりきれいな音だったから、あんたの名前は「鈴《りん》」になったんだよ。

 少女の胸に、今宵も響く鈴の音。
 母が聴いたという音色は、いったい、どんなだったのだろうか。


-終-

 


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