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宮川日護師「No.4 不思議なる縁シリーズ 久遠の友との再会を果たす」――「八王子サリン事件」

http://6027.teacup.com/situation/bbs/74012
皆さんは、覚えておられるだろうか?1993年12月18日の出来事を。
あのオウム真理教があろう事か、我が師・池田先生をサリンでポア( 殺害 )しようとして、
逆にサリンを浴び、重体になっていた事を。
そして、その重大な殺人未遂事件は警察に通報される事なく闇に葬られたが、
後の松本サリン事件裁判で明らかになったということを。

その時身を呈して師匠を御守りしたのが、当時新潟の青年部幹部であった市場君である。後日、信越女子部長となった市場智子さんの兄である。

先生は市場君に解らないように、指示を出された。
少々長くなるが当時のニュース、ウィキペディアから貼付するので、概要を掴んで欲しい。

ーー概要ーー

麻原によれば創価学会は『外道』であり、『仏教団体を名乗りながら煩悩を肯定している宗教』で、『原始仏教やチベット仏教を見下している』。
またサンデー毎日から始まったオウムバッシングは聖教新聞を印刷している毎日新聞社グループと創価学会が結託して行っているなどと主張していた。

さらに在家で信仰をしているオウム信者をオウムから学会に改宗させようと
家庭訪問などを繰り返す妨害活動(折伏)をする学会員も現れ、
『池田大作は日本を侵略するフリーメーソンの手先であり「仏法」を曲げている』
『多くの人をだまして来世悪趣に転生させてしまうのでこれを防がなければならない』
『オウムの信徒数を創価学会並みに増やしたいが、それに至らないのは池田大作が小沢一郎を使って国家権力を動かし妨害しているからだ』
『池田大作は「仏敵」であるからポアしなければならない』。

1993年8月、土谷正実がサリン合成に成功。オウム真理教はサリンの最初のターゲットとして池田をサリンで暗殺することを企図し、
最高幹部の村井秀夫らが行動に移した。
当初ラジコンヘリによる航空散布が検討されたが、ラジコンヘリが大破したため車両による攻撃に変更した。

ーー経過 ーー
1回目は1993年11月、クシティガルバ棟で生成したサリン約600gを村井秀夫、新実智光、中川智正らは乗用車に農薬噴霧器「霧どんどん」を載せて八王子市の学会施設に1回目の攻撃を行うが、

サリンが車内にも入る、ボツリヌス菌散布用の霧どんどんも故障するなどして失敗。実行役らはガスマスクをしておらず若干サリン中毒の症状が出た。

2回目は1993年12月18日(土曜日)で、
東京都八王子市の創価大学では演奏会が開かれる予定になっており、池田も出席することになっていた。
オウム真理教は事前に池田が演奏会に出席するという情報を入手していた。
当日未明、創価大学の近隣にある創価学会施設「東京牧口記念会館」にオウム真理教のサリン噴霧トラックが到着し、
3kgのサリン溶液を噴霧した。
しかし加熱気化式噴霧器による火災が発生したうえ、防毒マスクを着用していたせいで
会館の警備を担当している創価学会の牙城会の会員に怪しまれ、直ちに逃走した。
その際、実行犯の新実智光は防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し、重体に陥った。
新実に対し遠藤誠一や村井秀夫が人工呼吸を行い、
直ちにオウム真理教附属医院に搬送され、林郁夫らの治療の結果一命を取り留めた。
この際林郁夫が中川智正に原因を尋ねると中川は「サリーちゃんでポアしようとした。」と答えた。
林郁夫は、「サリーちゃん」が「サリン」を指すこと、
そしてオウムがそれを保有していたことをこの時初めて知った。

池田本人には被害は無かったものの、当日警備していた牙城会員が一時的な視力減退や倦怠感など
サリン中毒特有の症状を訴えたというが、後遺症は確認されなかったため、
創価学会では警察への通報をしなかった。
数名の牙城会員が、一時的な視力減退や倦怠感などの重傷を負ってはいたが、
学会側はこの事件を表沙汰にすることはなく、
池田大作サリン襲撃未遂事件の犯行の事実は、1996年1月の松本サリン事件公判で明らかにされるまでのおよそ3年間公にされることはなかった。

しかし、創価学会の実質的な最高指導者である名誉会長・池田大作の行動予定の外部への漏えい、流出という事態を重く見た学会は事件以降、
池田の行動予定の情報管理を厳しくするとともに、創価学会本部職員の中からボディガードを選抜した「第一警備」を発足させて池田の身辺警護に当たらせるとともに、
信者から選抜した金城会、牙城会、創価班などに、各会館の警備を強化させている。
ーー経過 おわりーー

先生をお守りした真正の弟子への先生からの揮毫。
(トインビー博士の言葉より)
「人格や文明が成長しつづける限り、外の戦場での外敵のつきつける挑戦は、
ますます考慮しなくてよいようになる。しかし、心の中の闘技場で
自分が、自分につきつける挑戦は、ますます考慮せねば ならなくなる」
( 敵は 内部にある)
大 作

これだけの重大殺人未遂事件を警察に通報せず隠蔽。先生の御行動を知り尽くした上での犯行。
先生が市場君に渡された「 敵は内部にある 」との揮毫とメモ。
身近な敵により、命を奪われた我が師の親友・周総理の真実を伝えたい。

大中国の父――
周恩来総理。
周総理と養女、孫維世(そん・いせい)との苦渋の歴史は殆ど知られていない。
毛沢東の嫉妬と欲望によって、引き裂かれ、殺されたその事実を我々は直視しなければならない。
命より大切な師匠のすぐ側に、師匠の最大の敵が居ることを本当に知らなければならない。
壮絶な内容ですが送ります。

孫 維世(そん いせい 1922ー1968.10.4)
生誕時の名前は 孫 光英
彼女は革命烈士であった孫 炳文の娘で、周恩来総理の養女となる。
話劇の女優及び監督として知られた。
1939年に養父 周恩来総理の指示で延安からモスクワへ留学、演劇を学んだ。
1946年に帰国した後、延安の四大美女と呼ばれた。
1949年12月、ソ連に向かう毛沢東にロシア語の通訳として随行。
この時、周恩来氏の養女である孫維世に対し、毛沢東は酒と薬を飲ませ無理矢理男女関係を結んだと言われている。
文化大革命時代には、周恩来氏の娘である孫維世は、女優としての名声の高さと、
毛沢東との男女関係から、毛沢東の妻、江青( こうせい )に嫉妬され、迫害を受け、激しい拷問を加えられた。
孫維世は養父である周恩来氏が署名した逮捕状をもって、北京公安局の留置場に送られ、
1968年 10月 4日に獄中で死亡。遺体は一対の手枷、足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。
看守等の証言によると、江青が刑事犯罪者たちに、孫維世の衣服を剥ぎ取らせて犯させて、
輪姦に参加した受刑者を減刑したという。
又、孫維世の遺体の頭頂には大きな杭が打ち込まれていた。

周恩来氏は、最愛の娘の悲惨な拷問死に検死を要求したが、「遺体は、すぐに火葬する!」との回答のみがなされた。
更に、後年病床にあった周恩来総理の治療について、何らかの圧力により、最善が尽くされなかった事は、
周総理の主治医が自著で記している。
その中で、主治医は、毛沢東の指示によって、周総理の癌の手術は
完全に行なう事が出来なかった事や、抗がん剤治療も行う事が出来なかった事を記している。
ユン・チアン氏は明確に「毛沢東が周総理の治療の妨害を行なった」と記述している。
毛沢東は自分よりも、1日でも早く周総理を死に追いやることを指示して、周総理の死後8ケ月を生きた延びた。
優秀なる同志である周恩来氏を妬み、その娘を手込めにし、周氏にロシアのスパイの嫌疑をかけ葬り去ろうと画策。
自らの容疑の潔白を証明するための証しとして最愛の娘を官権の手に渡す署名をさせた。

娘を想像を絶する拷問で攻めたて、周氏がスパイであると嘘の供述をさせようとし
その為に父が署名した逮捕状を見せた。
しかし、孫維世は父を守る為に決して嘘の供述をしなかった。孫維世は殺された。
父、周恩来氏は、娘の検死すら認められず、自らの癌の治療も一部の摘出しかなされなかった。
絶大な力を持っているように見える周氏は、実は極悪なる内部の敵、
もっとも信頼していた毛沢東の裏切りによって、最愛の娘を犯され、殺され、自らの命も奪われた。
周恩来氏は中国の人民を守る為に、自分が失脚し、葬り去られるわけにはいかなかった。
最愛の娘を助ける為に、娘と共に処刑されれば、どれ程か、楽であったろう。
だが、周総理は生きた。血の涙を流しながら生きた。
中国の人民を守る為に、内部の最大の敵を倒す為に生きた。耐えた。
その、周恩来氏の思いを忘れてはならない。

以上です。

◎1993年 12月 18日にオーム真理教が先生の殺害を企て、牧口記念会館に向けて3キロのサリンを噴霧した際、
先生をお守りした真正の弟子への言葉。
(トインビー博士の言葉より)
「人格や文明が成長しつづける限り、外の戦場での外敵のつきつける挑戦は、ますます考慮しなくて よいようになる。
しかし、心の中の闘技場で自分が、自分につきつける挑戦は、ますます考慮せねば ならなくなる」
( 敵は 内部にある)
大 作

写真の中央の女性が周総理夫妻の養女、孫 維世さん。


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