@mhj333
人間の普遍的な心理

世界が変わっても私たちは変われない

 

「バイト、手伝ってよ~」

 右耳をおさえる。空は真っ赤だ。何も変わってない。
 彷徨っているうちに、見たことのないビルの屋上にいた。
 そこにはふわっと彼女が座っていて、そこらじゅうにばらばらになった【謌サ】をまき散らしていた。

「手……、疲れちゃって~……」

 驚くべきことに、無崎は彼女がクラスメイトであることを思い当てた。
 誰だっけ。でも見たことがある。
 見たことがあるが、誰と一緒にいた誰なのかまではわからない。
 だがそれはどのクラスメイトでもだいたい同じだった。誰といたのかわからないということは誰かと一緒にいたんだろう、というぐらいまでは分かるけれど。
 戻り方がわからないのでそばに座った。彼女がいま書いている【謌サ】は読めないぐらい適当だった。

「……これ、大変だよね。いつまで続ければいいのかな? もう100枚は書いたと思うんだけど」

 世界は見上げれば高く、見下ろせば果てしない。
 右手は右耳を抑えているから、そばに置かれたサインペンは手に取れない。
 左手でもいいから書くべきか考えているうちに、時間は弥音を置いて進んでいく。

「あのさ、無崎さんって……中学のとき、休んでたの、白血病だったってホント?」

 振り向いた。

 そこには女の子がいた。額にアイマスクを当てた女の子。小さい。髪はふわふわしていて、かったるそうに溶けた丸い瞳は人形みたいにかわいい。引きずるぐらいの袖の服をめくって、だらだらと謎の男の課題を続けている。それに飽きて話しかけている。弥音に。
 時間は流れていた。ずっと流れていた。だから捕まえ損ね続けている。今もまた。

「あのさ、あの……競争のとき、熱中症で……ず~っと体育休んでるじゃない、ずっと……」

 そっと、
 右手を離すと、彼女の声が聞こえる。
 なにかが零れている音が聞こえる。

「……ずっと、ずっとさ……」

 感情が見えた。
 色に例えるなら、青に近い。

 動けなかった。自分もそうだった。その子は言う。
 思い描いた半分も身体が動かない。思い通りにならない。ただ一人の自分自身でさえ。

 無崎弥音はうなずいた。

 感応する。
 彼女が何を言っているのかわかる。人が何を言っているのかわかるのは、無崎にとってはびっくりするぐらいあまりないことだった。
 彼女の言いたいことがわかる。同じことを言っているんだ。

 わかるよ、と言っている。

 風が吹く。強く。
 その子の髪がなびくのが見える。
 空は黄金色で、オーロラみたいなみどりの線が見える。
 溢れ出した共感性が風に溶けていく。投げ捨てられた紙片が宙を舞う。

「……社会って、健常者のものでしょう? だから、私みたいな……欠陥品は弾かれる。この書き損じと同じ」

 でも、みんな優しいから手を引いてくれるし、同情してくれるの。
 憐れまれるたび、自分は劣ってるんだな、って自覚して、嫌んなる。

 同情、という言葉を思い描いた。
 みどり色だ。調和。生命的で、混じりけのある、浸食の色。
 その色はありふれていた。無崎のまわりにも溢れるほどにあった。私はこの世界の正常に回ってゆく歯車からこぼれた垢をすくって生きている。誰かが取り分けてくれた林檎を食べて生きている。与えられて生きている。それでも死に向かってすべり落ちていく。こんなに大勢の人に……

「だからね、だから、近頃ね、もう限界だなって思うの。進級できるかわかんないんだって。授業もテストも起きてらんないの。完全に……もう完全に、出来損ないのレッテル張られる前に」

 時間の流れが言葉の流れを同情し、二人に合わせようとして歪んでいく。

「だから、私はこの世の不良債権だから、早く死ぬのがせめてもの……社会貢献かなーって思ったりもする」

 その子は喋り続けた。ずっと。溢れ出すみたいに。そっと流して誰にも見られないうちにあの奈落に棄ててしまおうというみたいに。
 無崎はうなずいた。ずっと、静かにうなずいていた。
 ずっと。

「誰も本当の私を知らない」

 彼女はそこにはいないらしい。

「知られたくもない!」

 いたくもないらしい。

 声が聞こえた。右のほうから。
 お前しかできない。
 一言だった。それ以外にはない。
 でもそれは指をさしていた。奈落のほうを。

「嫌われたくない。今のままでいたい。愛されるわけがない。生きても結局幸せになれるわけない。いつもの私だけを見てほしい。私がつくったちゃんとした私だけ見ててほしい。それが私だったってそうしてほしい。今よりいい時間なんてない……」

 ああ……
 彼女は終わらせたがっている。死にたがっている。ただ終わらせたいと思っている。
 幕を引きたがっている。スポットライトが残っているうちに。
 ████(無崎には、彼女の名前がわからない)が、彼女の思い描いた少女のままでいられるうちに――

 そう。
 だったら、あんたも幸せじゃない人で良かった。

 無崎は、立ち上がって、屋上の下を指した。
 無数の雨どいと排気口、アンテナや電線に縛られたあの瓦礫の下にあるものを知っている。

 ”さっきのところを逆にいけば奈落があって、この世のなんにも気が付かれないまままっすぐ地獄へ行けたのに――。”

 この世界にはなにもない。
 なにもないが広がっていく。足元から、目の前に広がる違法建築の群れから、目の前の彼女を通り抜けて、狂った色の吹き荒れる空の果てまで。
 お前にしかできない。
 理由はわからなかったが、その言葉はそのとおりであるように思えた。
 知っているのは私だけだからだ。我々の足元にほんとうに広がっているのが何なのか。
 それが見えるのは今は、今は私だけだから。
 教えてあげたい。彼女にも。
 顔のない男が差し伸べたように、彼女にも差し伸べられてほしい。何かが。なんだっていいから。誰かが。なにか。
 ほんとうに彼女の必要なものを。彼女が望んでいるものを。まだ見えていないものを。
 お前にしかできない。

 …………。



 *



 鎌倉ねむはビルの淵に立っている。

「(いいの?)」

 無崎は彼女に話しかけようとした。声は出なかった。喉からすっぽぬけたみたいに、何も出てこなかった。ほう、と息だけが吐かれた。
 それでも彼女には、きっとなにかが聞こえて、
 もしくは風がうるさくて、世界が狭くて首がもたげられなくて、それで、頷いたのかもしれない。

 いいの? 本当に?
 死ぬのは怖いよ。ほんとうに。
 私がこんなにおそれているのに。

「なるべく綺麗に、死ねるといいな」

 うん。

「綺麗な私だけを見てほしい……」

 彼女は遠くを見ている。絶対に届かない何か。自分で望んで、自分で捨てて、自分で苦しんでいる何か。
 彼女は選ぼうとしている。
 自分が壊れたあと、そこに散らばるものを選ぼうとしている。
 それが永遠に美しいものとして残るように祈っている。

 弥音も祈った。
 死がどうか、彼女を恐れませんように。
 たった一瞬、苦痛の神がなげかける視線を、誰かが遮ってくれますように。
 彼女の苦痛がしらしめますように。
 この世界に。
 なにか美しかったもののことを。

 そんなものが本当にあるのかは知らないけど――。

「"今"しかないの、私には!」

 風の音が彼女の捨てたものを全部かき消す。

「押して!」




 ・
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 どん。





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 荒川高層区九十壱階層家屋三十二棟に広がる虚の空間に投げ出された鎌倉ねむは風に煽られながら瓦礫の深い穴の中へ落ちていく。
 どこまでも落ちる。風景が身体をかすめていく。なにもない場所に向かって吸い込まれていく。
 錆びつく雨どいが引きずられるように砕け散って彼女の後をばらばらと落ちていく。
 無限に続く一瞬の風の中を少女が真っ逆さまに落下していく。
 千切れたアンテナが崩落して後追いしていく。
 日常の痕跡を振り切り散っていく。
 鎌倉ねむは落ちていく。


「ねむ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 掴まれた瞬間、肩が外れた。
 激痛と同時に衝撃が襲った。これまでかすめてきた雨どい、アンテナ、配線、看板、洗濯物、風景のすべてを叩いた代償として、
 それらすべてが崩れ落ちる轟音が鳴り響く。
 誰もが振り向いた。その時その区画にいたすべての子供たちがそれを聞いた。
 鎌倉ねむが転落する、ささやかな崩落の音は、
 少なくともその真上に立っていた無崎には、世界に張られた薄いガラスをたたき割るような凄まじい轟音に聞こえた。





 ・
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 ・
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 彼女が死ななかったところを、弥音は覗き込んだ。
 壊れていたものが壊れている。奈落はまだ見えない。引き留められていた。
 誰かが階段を、凄まじい足音を立てて登ってくる音が聞こえる。

(死んでない……)

 ぼうっと、その先にあるはずの奈落を見とおそうとするみたいに、眺めていた。
 邪魔された。誰かが彼女の手を掴んだ。あいつ誰だっけ。

(なんか……)

 もともと綺麗なあの子が本当に望む綺麗なすがたがわからない。
 もうこれで永遠にわからなくなったのかもしれない。



(……可哀想、だ)





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 人間はそう簡単に変わることなんてできない。
 たとえここが異世界であったとしても。

 


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