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のざりん(社民主義で緑の党支持)
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J.デリダの「生命倫理」序説――P.シンガーの動物解放論を批判する

はじめに

 ピーター・シンガーは種差別(speciesism)を批判する。種差別とは、「私たちの種〔人類〕の成員に有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」(シンガー [2009=2011:27])による、人類を不当に優遇する社会構造のことである。シンガーは、この種差別を、人種差別や性差別とのアナロジーで捉えつつ、そのような態度や社会構造を非難する。

 シンガーは、「基本的な道徳原則として、なんらかの形で、利益に対する同等の配慮」(同:28)を考えるとき、ベンサムを敷衍しながら「苦しんだり楽しんだりする能力」(同:29)をその論拠として挙げる――シンガーはこの「能力」のことを「感覚」と言う(同:30)――。そして、その能力こそ、「いやしくも利害をもつための前提なのであり、私たちがその利害を語ることが意味をなすために満たされなければならない条件なのである」(同:29)とシンガーは言う。「当事者がどんな生きものであろうと、平等の原則は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に(中略)考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を享受することができなかったりするならば、何も考慮しなくてよい。だから、感覚(sentience)をもつということ(中略)は、その生きものの利益を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である」(同:30)。こうしてシンガーは、感覚の有無に基づく平等主義こそが真の平等主義であると考え、動物実験の反対、工場畜産の批判、菜食主義の擁護、人間中心主義の批判へと進んでいく。

 しかしながら、感覚の有無もまた、恣意的な境界ではないのか。ジャック・デリダは「「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算」において次のように言う。「問題はもはや、他者を「食べる」のが、またどんな他者を「食べる」のが、「よい」かどうか、あるいは「正しい」かどうかではない」。そして「菜食主義者もまた動物を、さらには人間をさえ食べている。この人々は、また別の種類の否認を行っているのだ」と述べる(「「正しく…」あるいは…」p.177)。デリダにとって道徳的な問いとは、シンガーがそれとして立てるような「食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれであってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない」(同:177)。デリダは、「正しく食べなくてはならない」こそが「無限の歓待の掟」であると言う(同:178)。本稿では、こうしたデリダの思考に即しつつ、デリダが挙げている「生倫理学ないし生政治学」、「「安楽死」に見られるような挑発的事例」(同:178)などについて、シンガーが示す生命倫理とは別様な姿を模索していく。

1 シンガーの動物解放論の骨格から見えるシンガー倫理学の前提

 1-1 シンガーの動物解放論と菜食主義

 六章からなるシンガーの著書『動物の解放 改訂版』の思想的な根幹は、第一章「すべての動物は平等である」に集約されていると言ってよい。井上有一は、次のように本書の構成を簡潔かつ的確にまとめている。

 「最初に、著書『動物の解放』におけるシンガーの主張を確認しておきたい。その理論
 的な検討は、第一章に尽くされている。第二章では動物実験、第三章では工場畜産のそ
 れぞれについて、具体的な事例を挙げてその実態を紹介している。続く第四章では基本
 的な対応のあり方としての菜食主義の実践を論じ、第五章では人間による動物の支配の
 歴史を思想的に振り返る。そして、最終第六章では現代の動物の扱いをめぐる論争を取
 り上げて考察している」(井上 [2008:84-85])

 シンガーは、動物は苦痛を感じることができるから、倫理的配慮の対象に入れるべきであると主張する。「私たちがすでにみてきたように、動物が感じる苦痛(あるいはよろこび)は人間が感じる同じ量の苦痛(あるいはよろこび)と比べてより重要性がうすいという主張を、道徳的に正当化することはできないのである」(シンガー [2009=2011:37])。そして、シンガーの動物解放論の主張とは、骨格はこれだけである。苦痛を感じる能力がある生物に対して、苦痛を与えることは倫理的に許されない。苦痛を感じるということは、「利害をもつための前提」(同:29)だからである。「子どもに路上で蹴られるのは石ころの利益に反するなどというのはナンセンスであろう。石は苦しむことができないので利害をもたないのである。私たちが、何をしようが石の利益がそこなわれることなどないのである」(同:29)。

 たとえば、シンガーは菜食主義を擁護する。シンガーは菜食主義を「食べることが許される境界」(同:213)を問うものとして理解する。「私たちの食習慣のラディカルな変革が必要だということは明らかである。しかし私たちは植物性食品のほかは何も食べるべきでないのだろうか? 正確にはどこに線を引くべきなのか?」(同:213)。さらにシンガーは次のように畳み込む。

 「もしある生き物が苦しむとするなら、その苦しみを無視したり、あるいはその苦しみ
 を他の生き物と同様な苦しみと平等に扱うのを拒否したりすることは、道徳的に正当化
 できない。しかしこの逆の命題もまだ(ママ)真である。もしある生き物が苦しみや喜
 びを感じることができないならば、その生き物について配慮する必要はない。
  だから線引きの問題は、私たちがある生き物について苦しむ能力をもっていると想定
 することが、どういう場合に妥当かを決めるという問題である」(同:215)

 また、シンガーは「「私たちはどうして植物が苦しまないとわかるのか?」という問いについても検討している。シンガーは、次のように答える。

 「この反論は、植物に対する純粋な配慮から発したものであるかもしれない。しかしこ
 ういった反論をもちだす人の多くは、たとえ植物が苦しむことがわかったとしても植物
 にまで配慮の対象を広げようと真剣に考えることがないような人たちである。そういう
 人は、もし私たちが私の提唱したような原理にしたがって行動しなければならないとす
 れば動物だけでなく植物も食べるのをやめなければならず、結局飢えて死ぬことになる
 ということが証明されるのを期待しているのである。そうした人がひきだす結論という
 のは、もし平等な配慮という原則に違反せずに生きることが不可能ならばその原則につ
 いて思い悩む必要は少しもないのであり、反対にこれまでいつもそうしてきたように植
 物や動物を食べつづければよいのだというものである」(同:299)

 つまり、シンガーにとって「植物のことも考えよ」といった動物解放論批判の多くは、動物も植物も食らう現状に甘んじ、肯定したいがための単なる難癖であり、言いがかりにすぎないのだと考えられる。続いて、その論理の面から、シンガーは次のように答える。

 「ありそうもないことだが、研究者たちが、植物が苦痛を感じることを示唆する知見を
 見いだしたと想定してほしい。それでもやはり、私たちはこれまでいつも食べてきたも
 のなら何を食べてもよいということにはならないだろう。もし私たちが他者に苦痛を与
 えることか餓死することのいずれかを選ばなければならないのなら、私たちはより少な
 い悪をえらばなければならないだろう。おそらく植物は動物ほどには苦しまないという
 ことは依然として真実であろうから、やはり動物を食べるよりは植物を食べる方がよい
 ということになるであろう」(同:299-300)

 シンガーはこのように述べ、植物への配慮をもちだす議論が単に「茶番めいたもの」(同:300)であると断じる。「私が植物の問題をこんなにしつこく検討したのは、ひとえに、この反対論をもち出すがその論理的な帰結をきちんと追ってみようとしない人びとは、実際は肉を食べ続けるための口実をさがしているだけだということを示したかったのである」(同:300)。シンガーはこうして、おそらくは動物よりも苦しむことが少ないであろう植物を食べることを、「より少ない悪をえらばなければならない」という理由で選択するのである。その前提には、何も食べずに餓死することなどあり得ないとシンガーは考えていることも確認できるであろう。その上で、「食べなければならないなら、より苦痛を与えることが少ない植物を食べるべきである」と主張しているのである。

 1-2 境界について

 では、シンガーが考える動物と植物との境界、つまり苦痛があるかないかによって倫理的配慮をするかしないかを決定することは、本当に恣意的ではないと言えるのだろうか。さきの井上が、ジョン・ロッドマンのいう「有感覚動物中心主義」の議論を引き合いに出しながら考察している。井上は、次のように述べている。

 「『動物の解放』において、シンガーは、この基準をベンサムの議論をそのまま受け入
 れるかたちで導入しているが、その妥当性については(すなわち、なぜこの基準が恣意
 的でないといえるのかについては)とくに言葉を尽くして論じているわけではない。苦
 しむことのできるということが、利益(関心、インタレスト)を持つことができる前提
 条件であり、それゆえ、これがその生き物の利益を考慮すべきかどうかの、唯一の妥当
 な判断基準であるとは、繰り返し主張している。しかし、その主張そのものの正当性を
 論じることはしていない。シンガーにしてみれば、この言議論の流れが十分に論理的で
 疑問の余地のないことは、自明であったのだろう」(井上 [2008:94-95])

 井上は、「しかしながら、『実践の倫理』においては、シンガーはその説明の必要を認めたのか、感覚を持つという基準が恣意的とはいえないことについてのいくらか踏み込んだ説明が見られる」と述べている(同:95)。さらに、井上の論文より後に出された『動物の解放 改訂版』においても、シンガーは同様の記述をさらに踏み込んだ形で行ってはいる。ただし、それは1-1で述べたようなことにとどまる。煎じ詰めて言えば、「利益というものの性質上、それが感覚の有無に原理的に依存しているゆえ」(同:96)であり、それ以上のことをシンガーは述べていない。

 また井上は、続けて次のように述べている。

 「このシンガーの説明において重要なことは、この線引きが、対象となる存在が持って
 いる何らかの性質に価値を認め、その価値のゆえにその性質の有無による線引きを主張
 しているのではないということである。シンガーが苦痛・快楽を感じる能力の有無とい
 う線を選択している理由は、この線引きが利益を考えることを無意味にしないためのも
 のであるということでしかない。そうした能力が価値を持つゆえに、その持ち主を尊重
 するという考え方ではないことに留意すべきである」(同:96)

 井上は、シンガーの線引きが、苦痛や快楽を感じるという「能力に価値を認め、それゆえに、そうした性質の有無でもって倫理的配慮の対象にするということでは」(同:96)ないと述べる。そして、「シンガーの線引きが恣意的であるというなら、まずはこの説明の妥当性について検討することが必要になる」と述べる(同:96)。シンガーは「利益に対する平等な配慮」という原理を現実に適用することが「倫理の基本」であると考えるが、その際の条件として「利益を持つことができるか」、さらにその条件として「感覚の有無」を考えることは、自明なのではないか、そのように井上は述べる(同:96-97)。

 1-3 シンガーの動物解放論に前提されているもの

 シンガーは、苦痛や快楽を感じることができるという理由から、動物を倫理的配慮の対象に入れるべきだと主張する。そして、植物はそうではないという理由から、食べることが許されるものであるとし、菜食主義を擁護する。動物と植物とのこのような線引きは、植物が苦しまないがゆえに、妥当なものであると結論づける。かりに万が一にも、植物が苦しむとしても、それは動物の苦しみよりは小さいはずであり、より少ない悪をなすという意味で、この場合にも植物を食べることが正しい、そのように論じる。また、シンガーのこの線引きについて、苦痛や快楽を感じる能力の価値ゆえにその持ち主を尊重するという論には立っていないので、恣意的であるとは言えないという解釈も可能である。いずれにせよ、シンガーが考える平等――利益に対する平等な配慮――を考える上で、感覚の有無という条件は自明なものであると考えられるのである。そして、倫理は実行可能なものでなくてはならず、したがって、悪を為さねば生きていけないならば、より少ない悪を為すのが倫理的な行為であると考えていることになる。そう考えなければ、辻褄が合わないのだ。


井上 有一 2008 「「動物の解放」論とは何か――論理と心情をめぐる考察」(山内・浅井編 [2008:83-111])
ジャック・デリダ 1989 (=1996 鵜飼 哲 訳 「「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」(Nancy, Jean=Luc ed. 1989 Cahires Confrontation 20: Apres Le Sujet Qui Vient, Aubier(=1996 港道 隆 他 訳 『主体の後に誰が来るのか?』,現代企画室)),146-184)
Singer, Peter 2009 Animal Liberation, New York(=2011 戸田 清 訳 『動物の解放 改訂版』,人文書院)
山内 友三郎・浅井 篤 編 2008 『シンガーの実践倫理を読み解く――地球時代の生き方』,昭和堂


02:38 PM - 25 Sep 12 via Twishort web app

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