@mhj333
人間の普遍的な心理

誰でもない、私はここにいる

 


 花火が聞こえる。

 世界が真っ暗になっていく。
 夜の帳が下りて、遠くから祭囃子が聞こえる。
 異界の夜は澄み渡っていた。

「……突入だ。行こう――」

 けたたましい警報を皮切りに、流星のように人々が駆けだす。
 奔流。無崎弥音は感応する。膨らんでいくのを感じる。堰を切ったように溢れていくのを感じる。空気が高揚していき、流れ去ってゆくのを感じる。
 目に光が焼き付く。色とりどりの光が。鋭く、硬く、貫くような光。
 花火が聞こえる。人間の内側にあった火薬が弾けていくのを見ている。炸裂した光が駆けていく。走査線のように彼らの走った痕には色のついた線が残っている――空間に焼き付いている。夜の空には色がない。カンバスをめちゃくちゃに塗りつぶすようにクラスメイトたちが走っていく。
 夜風が身体を取り巻いている。吹き抜けていく無数の色を見ている。
 焼き付いて離れない。

 無崎は見覚えのある門の前に取り残された。
 そこは正門ではなかった。
 誰にも会いたくないとき、弥音は六限を抜けて裏門から帰った。海沿いの誰もいない道を歩いて帰る時間は白っぽく輝いていて、ずっとそこにいたくて何往復も歩いたのを思い出した。

 やがて夜が満ちている。
 そして光が、ぼやけた閃光の残滓が、花火の音に溶けている。花火が聞こえる。夏祭りで見上げた空を思い出す。心臓を打つほどの破裂音に包まれて、炸裂した巨大な火花は言葉には表せない感情の塊だった。あのとき弥音はただ溢れていた。あれは私。滲んでいく白、赤、橙、青、緑、そして夜。
 歓声を忘れて、空を彩る巨大な感覚に溶けた。
 それを思い出した。

 やがて遠くで破壊音が聞こえた。
 戦闘が始まっていた。ゆっくりと世界に追いつく。クラスメイトが次々と、伝令者に指し示された道を走っていった。戦いが始まったのだ。なぜ? なぜ戦っているんだ。ああ、半分ぐらいいなくなったんだ。クラスメイト。なんでだっけ、そう、追われていたんだ。追い詰められていた。そして半分、いなくなった。捕まえようとしていた人たちがいたということは捕まったのだ。だからだ。憤り、怒り、抵抗、それらは理不尽に奪われたことに端を発している。あったものがない。だから取り戻しに行ったんだ。

「行かないの」

 振り向くと、そこにはフードの男がいた。
 誰よりも先陣を切ったはずの人だった。
 ここにいるはずがない。だが、彼は立っていた。
 そうか、正門から入ったから……後門までまっすぐ来たならそのぐらいかもしれない。
 理由はわからない。

「ほら、忘れ物」

 電池の切れた携帯を手渡される。
 カバーは割れて、手に刺さるので剥がして捨ててしまった。ブルーのラメが入った白いカバー。忌沼さんに連れ出されたときに買ったやつだった。「かわいいやつにすれば?」と彼女は言ったのだけど、弥音はそれが欲しかったので譲らなかった。不思議と見ていると親近感の湧く色だった。遠い昔に見たのと同じ風景を見ているような感じの色。今は失われた。だから真っ黒な、剥き身のエクスペリア。

 思念兵器、MCI-Dは、既に接続されていた。

 わからない、と思った。
 なぜ皆についてきたのか。きっと気が付かないうちに誰もいなくなると思っていた。誰かに手を引かれたような気もする。それでもわからない。なぜ今ここにいるのか。平然と忘れてきたスマートフォンが手渡されたのか。目の前の男が何を考えているのか。
 わからない。

 そう思っていた。手に取るまでは。

 不意に予感がした。
 それは「解ける」という感覚だった。ある程度風景になったパズルには「見える」瞬間があって、それは風の中を抜けていく花びらを掴むことができたときのように儚いけれどはっきりした予感。これは「解ける」ものだ、と心が予感した。
 頭の中にある目が覚める。
 表層を撫でる。溶けている。接続しているのだ。理論立っている。論理の言語はコミュニケーションのために用いられるそれとは異なる。論理は構造している。流動しない。だから正解できる。
 覚めた視界に自分の塊が見える。ばらばらになっている。ひとつひとつを、接続する。組み替えて、つなげていく。完成形が見える。正解に近いものがある。無粋で、無意味で、無価値な質問だった。それでもあるものは組み立てなければならない。触れたからには組み上げなければ気が済まなかった。
 閃光が見える。
「何」が発光しているのかが分かった。不意につながって、駆けだしたクラスメイトたちの何があれほど爆発的に閃光したのかが解った。
 感情を構造化している。感覚が組み立てられるように出来ている。まだ読めないが、別の国の言葉を覚えるみたいに知ることができればすべて読めるようになる。その文法が解る。解るという予感がする。きっとその予感は正しい。
 光を分解して虹にする。虹を分解して色にする。偏差する閃光から感覚が選び出す。無意識下で行われている変換が見えた。
 はっきりと。

 目を閉じる。
 本当にいいのか? これを繋いでも。
 覚悟したほうがいいよ。その時は。

 それでも、靄がかかったようになって、
 いつまでも包み隠されていたものを、
 剥がしてみたかった。

 だから壁の前に立っている。
 そっと、長い廊下の壁をなぞっていく。
 指の先が探り当てる。

 点けるときも消すときも、スイッチはひとつだけ。
 切ろうとしているのか、点けようとしているのかはわからなかった。
 躊躇いを感じた。
 ……けれど、弥音はスイッチを入れた。解けると思ったなら、その問題は、やっぱり解くべきなのだ。






 神様に祈ったことある?
 私はある。
 全てのなにもかもがどうにもならないと悟ったとき、いちばん最後に触る壁。
 それは心の中にある、寄りかかるためにある壁。







 泣いていた。
 どこにもない場所があった。どこにも居場所がないときに行く場所。いつもそこにいた。そこは壁で囲まれていて押し入れみたいになっていて、いつもそこでは泣いている。小さな自分は九歳で背が伸び始めた頃だった。足が痛くて仕方がない。押しつぶされて捻れた足が痛い。痛い。痛くて、痛いので泣いている。
 ずっと泣いていた。泣きじゃくっていて痛い。泣き声はずっと外側にあって、蓋をして聞くのをやめた。
 憎んでいた。見捨てられて逃げられたとしか思えなかった。お前が千重波の家からいなくなったせいで今度は私の番じゃないか。許さない。絶対に許さない。いつか喉の柔らかいところに爪を立てて掻き毟って殺してやる。お前の血だまりで真っ赤になるまで許さない。
 怒っていた。去っていく兄のおそろしく寂しげな背中が忘れられなかった。その玄関で私はずっと憤ってマットを踏みつけている。それでも足りないときはスリッパ台をひっくり返して蹴飛ばして踏みつけて、記憶の中できちんと並んでいた革靴を手でつかんでドアに向かって投げつける。何度も何度も。それでも収まらない。ただ誰も引き留めなかったしそれができなかったことを踏みつけて潰して蹴飛ばしてずっと玄関にいる。
 笑っていた。世界が白く光っていてくすぐったかった。ものすごい夏の日差しでショッピングモールの吹き抜けは網膜を貫くぐらい眩しくて帽子を引っ張って(お母さん、あの石がいっぱい置いてあるお店の卵のってるチャーハンが食べたい)、腕の影に頭をうずめてくるくる隠れた(色えんぴつ同じやつがもうひとつ欲しい、使うようじゃなくて見るようのやつ!)。笑ってくれるのが嬉しかった。
 そして幼い弥音たちと一緒にいつも指を差す自分がいた。それ。いつも自分より一瞬早く、判断に向かって指を突きつけてくる。正しいこともあれば悪意に満ちていることもある。だから指を差したほうを見るのではなく、なぜ指を差したのかについて考えなければならなかった。重要なのは投げかけられた問題そのものではなく、なぜその問題に直面しているかどうか、それだけ。


 そういうものが全て繋がった。

 そして、目を覚ました。


 目を覚ますとそこは鯨津高校だった。
 正確には違う。ここは異世界だ。「西京」は東京と鏡合わせになった場所で、地名は東西が逆になっている。そして今、この場所は自分たちを追い立てた研究員然とした連中の根城になっていて、今まさに奪還作戦のための戦場になっている。
 そして無崎はただひとり、誰もいない裏門に取り残されている。
 エクスペリアは呼応して、青白く発光している。

「…………、…………」

 私は取り残されている。
 誰にも顧みられることなく。

「………、……、…………、………!」

 でもそれは、

 当たり前だ。
 そりゃ当たり前じゃないか。当然じゃないか。お前、お前が一人になったんだよ。お前が離れていったんだよ。お前が一人でふらふら離れていったんだ。お前だよ。お前がそうしたんだ。自分でそうしたんだよ!
 だってお前、自分がやったこと思い出してみろ。何をした? クラスメイトを一人屋上から突き落とした。そして何ひとつとして鑑みなかった。わかっていた。それがどういう風になってどういう意味でどうなるかなんて全部なにもかもわかってた、全部全部わかってたに決まってる、人を気狂いみたいにあいつら、遠巻きな視線も全部わかっていた、人をお人形さんか何かだと思ってんのか? わかってるに決まってんだろうが、わかっててやったんだから私が悪いんだよ。それで終わりじゃんか。何があんなにぎゃあぎゃあ騒ぐ必要があったんだ、あのあいつもあんな人目につかないところじゃなくてもっと全員がいてちゃんとあいつらの溜飲が下りるようなところで殴ってくれれば良かったんだ。それより誰か一人でも「謝って」とか「償って」とか何とか言ってくれれば良かったんだ。五体満足なのが気にくわないなら腕でも足でもへし折れば良かったじゃないか。
 それを何が「どうして?」じゃないんだ、どうしてじゃないんだよ、言えるわけないだろうが、あの人があんなになってああしてあんな目で遠くを見て奈落を見てあそこに立つぐらいまで覚悟したぐらい隠していたことをしゃあしゃあと言えるわけがないだろうが。当たり前じゃないか。そんなに薄情に見えるか。違う。見えてない。そもそも前提として間違っている。見えないんだからわかるわけがないんだ。表現されなければ心の中なんて誰にも見とおせやしないんだから。誰にも伝わらないんだから。
 だから胸が痛い。苦しい。涙が止まらない。

「…………、……、…………、…………」

 痛かった。打ちつけた背中が、後頭部が、右肩が、背骨が、股関節が、足首が、頬骨が、首の付け根が、締め付けられた肺が、むちゃくちゃにされた頭の中が、なによりも胸が。胸を押さえてうずくまって涙が止まらない。嗚咽が声にならない。涙が止まらない。心がいちばんひどかった。押さえても血が止まらない。涙が止まらない。
 ずっとこの激痛を知っていた。きっと耐えられないから外側にあった。こんなものを片付けている余裕なんかなかった。ずっと全力疾走しているから立ち止まって振り切ったものを受け止めている時間なんかなかった。そうやって置いてきたものが追い付いて、いま、涙が止まらなかった。
 悲しみは青色。いつもの青がこんなに深い青だったなんて知らなかった。私は無知でばかばかしくてなにも知らない。知らなかったことすら知らなかった。違う。知らなかったのと知ろうとしなかったのは違う。ただ愚かだっただけだ。頭が悪いから。遅すぎるから。

「…………! ………!! …………、…………」

 崩れ落ちて泣いた。
 もう一秒だって立っていられなかった。
 重すぎる。身体も。精神も。世界も。なにもかも。
 耐えられない。
 耐えられない。
 耐えられたことなんてなかった。ずっと押しつぶされていた。それでも引き摺って歩いていくよりほかになかった。そのためにばらばらだったということに気づいた。抱えきれないから砕いて粉々にして、それで抱えたつもりになっている。本当は違うと分かってすらいなかった。何も。





「私、何もわかってなかったのかもしれません」

 私は教室にいる。自分の席に座っている。
 ここには机と、椅子と、教壇と、教室というジオラマ以外には何もない。人間(クラスメイト)はいない。時折辟易するぐらい積まれているお菓子の山もないし、レゴブロックとかポケットティッシュとかもない。教科書も特に読む気のない本もない。
 ここには何もない。私がいる。

「そうだねえ」

 教壇には忌沼さんが寄りかかっている。
 茶色い天然パーマの髪を少し伸ばして後ろで結っていて、体育祭に着てきた黒いジャケットを着ている。「走っておいでよ」と言われて何も考えないで出走して普通に最下位になったしグラッときて担架で保健室に運ばれたし、彼女にはめちゃくちゃ笑われた。

「どうしてわからないんでしょうか」

 私はだらついた姿勢で煙草をふかしている彼女を見る。
 あの忌沼さんは本人ではない。私の想像した、私の印象の内側にいる人。

「どうしてだろうね」

 だから答えは曖昧だ。彼女はいつもそうだけど。

 でもわかっているんだ、本当は、この世のなにもかもがそうだ。それを知ったのは本当に幼いころだった。でも真実だと思う。
 つまり、私の見ているものはすべて、私の見たままのものに過ぎない。そこには人間や、事象や、現実が存在しているけど、それらは私の抱いた解釈の域を決して出ることはない。みんなただ、指で表層を撫でていて、それ以上のことはない。私に至っては表層までだって指がかからない。まれに爪が引っかかればいいほうだ。どうやって掴めば投げ返せるかわからないボールばかりが檻の内側に転がっている。私だけが檻の中にいるわけじゃない。みんな同じ檻の中にいて、外側にいる人たちとボールを投げ合っている。そう思えば、檻をがたがた揺らすだけしかできなくても平気だった。
 みんな同じなんだから。人間は誰しもみんなこの世にひとりきりだ。

「……畜生」

 椅子から立ち上がる。

「私は。どうして私は、畜生、畜生、畜生、畜生畜生」

 誰だって耐えているのに、どうして私は傷だらけなんだ。

「畜生!!!」

 机を蹴飛ばす。机が勢いよく吹き飛んで前の机にぶつかって両方とも倒れる。あまりにもささやかな破壊にカッと火がついたようになって止められなくなる。椅子を掴み上げる。崩れた机に叩きつける。粉砕する。割れた椅子の足を投げ飛ばす。窓際の机を巻き込んで破壊する。滑っていってタイルの床を抉る。隣の机を蹴飛ばす。机は吹き飛んで廊下側のドアにぶつかってすさまじい音を立ててそれを歪ませてクレーターみたいになる。手あたり次第に椅子を掴んで投げつける。窓が、ロッカーが、ドアが、黒板がみんなひび割れて粉砕される。

「なんでだよ……!!! なんでなんだ!!!!」

 絶叫した。声が裏返って喉が千切れそうになった。
 破壊された教室の中にこだまする。
 誰も返してはくれない。ここには誰もいない。何もない。私がいるだけだ。誰も答えを教えてはくれない。誰も指し示してはくれない。誰も答えなんか知らない。答えなんかない。この問題は誰も解けない。誰にも答えは出せない。
 なんでそんな問題を出すんだ。
 どうして。
 意味のない問いだけが涙と一緒に零れ落ちて、傷ついたタイルに染みていく。

「そうよ」

 無傷の教壇の上に、忌沼さんは足を組んで座っている。
 そうだよ。私だってこんなことしたくない。大切なものを壊したくなんかない。

 目を凝らして彼女を見つめる。
 違和感があった。目の色が違う。目が……

「だから、どうか、あなたは、ひとりぼっちになりませんように」

 それは言葉じゃなかった。
 声でもなかった。
 何でもなかった。
 誰でもなかった。

 ただ、ずっと近くにいたような気がする。手を握っていたような気がする。一緒に走ったような気がする。縛り付けられて苦痛に呻いていたとき、鋏を持って助けに来てくれたような気がする。庇ってくれた気がする。一緒にいたような気がする。

 そこはとても悲しい場所だから――


 ……うん、その通りだな。







 縋りついていたことに気が付いて顔を上げると初めて、生まれて初めて、その人と目が合った、目を覚まして初めて人間を見た。彼女の目は赤と、紫で、じっと無崎を抱きしめていた。ざんばらに切った髪が目の前で揺れた。

「………う、う」

 呻き声が形になった。目を焼くほどの青い炎が見える。握りしめたエクスペリアから溢れ出して止まらなかった。喉を焼く。浸食する。心が口を開こうとしている。

「う、あ、あああ、あああああ………」

 嗚咽が漏れた。
 縋りついて、泣いた。ただひたすら涙が止まらなかった。本当はわかってるんだ。わかってるんだどうしようもないってことは。そんなことはわかってるんだ。わかってるけど悲しいんだ。ただ悲しくて、悲しくて悲しくてやりきれなくて、ただただ悲しいだけなんだ。
 真っ青な炎に包まれた弥音を、誰かさんは黙って抱き留めた。
 何も言わない。
 何も答えない。
 何も示さない。
 ただ、そこにいるだけだった。

 悲しい。
 悲しい。
 悲しくて、遠くで花火に混じって爆発する音が聞こえる。
 悲しくて、私はもう立ち上がれないような気がする。
 悲しくて、手が潰れるほど握りしめたエクスペリアから駆け上がった炎で瞼が破れそうなぐらい燃えている。
 悲しくて、ずっと叫んでいる。

 時間は等しく流れていた。
 泣いても泣いても涙は止まらなかった。
 差し伸べられた腕だけが暖かくて、燃えさかる弥音の悲しみを包み込んで誰かは黙って、ただ黙ってそこにいるだけだった。

 そこにいる。いるからいるだけだ。
 それだけ……
 そう、本当はそれだ。
 それだけが。

「………………」

 それだけが本当のことだ。
 悲しいけど、わかっている。

 それは、悲しみの中で生きていくことだ。
 孤独はほんとうのことだ。悲しみはその一部だ。これからもずっと悲しいのは終わらないだろう。苦しいのは変わらないだろう。血を流し続けなければいけないだろう。
 生きている限りはずっと、そうしていかなきゃならないだろう。

 あの人のことを思い出す。
 どんな一瞬でも弥音にとっては等しい記憶の写真だった。何度でもはっきり思い出せる。あの廃屋の上で、黙々とわけのわからない文字を書きながら、彼女の話を聞いたこと。

 誰も本当の私を知らない。知られたくもない。

 その孤独はほんとうのことで、それを垣間見るとたしかにあることに高揚する。ひとりきりでいることが当たり前のことだとわかるから。
 でも彼女はその先を見ている。
 その感情が何なのかわからない。でも彼女のそばに立っていると弥音は思った。本当は誰にも見えないものを見ていると錯覚できた。わかりあえないけれど見えた。ただ、見えた。
 そこにはとてつもなく美しい夢をみている人がいた。
 傷だらけで、血まみれで、叫んでいて、壊してしまって、壁の前に潰えて、それでも壁の上を見ている人がいた。
 彼女は綺麗だった。あのとき。あの世界のあの瞬間の他のなにより。

 だから……
 わかっていたけど、全部わかっていたけど、
 私は後悔なんかしない。

 絶対に。
 私は違う。私は、私だけは絶対に振り返ってなんかやらない。
 理解なんかしようもない。人間はみんな孤独なんだから。
 それでもあのとき見えた。傷が。血だまりが。罅が。苦痛が。絶望が。悲しみが。
 あれは私の頭の中にあるもの。私の中に血だまりがあるから、彼女が血を流しているのが見える。
 だから、それがたとえ、たんなる虚像だったとしても、愚かだったとしても、正しくなかったとしても、私は、私だけは、絶対に、
 あのとき美しいものを見ていた、彼女を信じている。

 だから私の流した血は一滴も無駄なものじゃない。
 そう信じさせてくれるものを探している。

 探して、目で追って、触れようとして、きっと失敗するだろう。うまくなんていかないだろう。傷ついて苦しむだろう。それがわかっている。

 それでも生きていたかった。

 ずっと背負い続けることになるかもしれない。負い目を、苦役を、苦痛を、傷を、怒りを、悲しみを、涙を、美しくないすべてのものを。
 それでも立ち上がらせてほしいと思ってしまう。どうしても。
 透明になりたくて仕方がないけど、それでも消え失せてしまいたくはなかった。
 どこでもいい。どこかに居させてほしい。
 違う。どこかに居たい。私は、
 何かに生かされているのではなく、いま生きているのだと言いたい。
 誰に認められなくとも、ここにいるってわかっていたい。
 なによりも自分自身が――

 本当に私をないがしろにしようとしているのは単に私なのだ。

 きっとまた忘れる。
 悲しい。でも、
 思う。

 私の当たり前もお前たちの当たり前も本当は変わりやしない。
 あの子の当たり前とお前たちの当たり前も本当は変わりやしない。
 いつか誰しもがそれに気が付きますように。忘れてしまったときは思い出しますように。
 そんな日はきっと来ないけど。
 それでも私は、喉がなくても叫ぶ。血反吐を吐いてでも呪い続ける。
 全部燃え尽きてしまうまで。
 最後に、形のない、ほんとうに美しいものが残ることを信じて。

「ありがとう」

 縋っていた胸に埋もれながら、誰でもない人に言った。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

 涙が止まらない。悲しみは止まらない。
 でもこの涙は悲しいだけの涙じゃない。だからいい。別にいい。
 泣いたって誰も気が付きはしないんだから。

 立ち上がりたくなんかまったくないけど、立ち上がらなきゃならなかった。
 歩きたくなんかまったくないけど、歩いていかなきゃならなかった。
 学校には行かなきゃならなかったし、みんな戦うなら戦わなきゃならなかった。
 そのほうがいいから。
 ただ悲しいだけで終わるより、何かやり遂げたって思いたかったから。







 ものすごく長い時間が過ぎたように思っていたのに、フードの男はまだそこにいた。暇なのか?

「行く?」

 缶コーヒーかなんか買ってくるぐらいの気軽な口調で彼は言った。

「行く」

 弥音は言った。
 涙はまだ止まらなかった。湧きだして止まらない。燃えている。身体が。心が。感情は純粋な青色の炎になって燃え上がり、MCI-Dと接続したエクスペリア越しに身体を燃やしている。感情は全身を駆け巡っている。それがわかる。だから何よりも炎は耀かった。
 この使い方が正しい。
 私は燃えている。だから、今なら声に出して言えるだろう。
 言わなければならないことはすべて。

 ”起動”する。
 炎は悲しくなるほど純粋で、真っ青に燃え上がって、
 彼女の右手の中で、
 鞘も、柄すらもない、
 ただ灼熱の青に染まるだけの剥き身の刃になった。
 そして彼女自身を燃やした。

 歩いていく。
 おそろしく僅かな一歩でも、涙に霞んでいても、
 必死に前を向こうとしていた。







「やっと使えたじゃん。よかったな」

 そう呟いた後、伝令者はさっさと先陣に向き直って、それっきり振り向くことはなかった。

 


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